(こちらは、前のブログ記事の続きです。)
儒学の開祖・孔子は、『論語』で
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」 (雍也第6-23) /
「子、 川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。」 (子罕第9-17) と述べています。
孔子を“私淑〔ししゅく〕”した孟子は、孔子の水礼賛を次のように解しています。
■「徐子〔じょし〕曰く、仲尼亟〔しばしば〕水を称して曰く、
水なる哉〔かな〕、水なる哉と。何をか水に取れるや、と。
孟子曰く、/*原泉混混として、昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。
科〔あな/=穴〕に盈〔み〕ちて而〔しか〕る後に進〔すす〕み、四海に放〔いた/=至〕る。
本〔もと〕有る者は是の如し。是れ之れを取れるのみ。/
苟〔いやし〕くも本無しと為さば、七八月の間〔かん〕、雨集まりて、
溝澮〔こうかい〕皆盈〔み〕つるも、其の涸るるや、立ちて待つ可〔べ〕きなり。
故に声聞情〔じつ/=実〕に過ぐるは、君子之を恥づ、と。」 (離婁章句下)
◇*「水源のある水は、コンコンと湧き出して、昼も夜も休むことはありません。
そうして、流れてゆく途中に、窪んだ所があれば
それをいっぱいに満たしてから、更に流れ進んで行き、
ついに四方〔よも〕の海に辿り着くのです。
すべて、本〔もと/本源〕のあるものは、
このように流れ続け決して尽きることはないのです。
(水の)この点を孔子は、賞賛されたのです。」
このように、孟子は孔子を理解し、
水・水の流れを、智の流れて尽きないものとして捉えています。
水に対する、儒学の有力一般的な見解でしょう。 注6)
尤〔もっと〕も、私は孔子の水・水の流れを次のように解しています。
孔子は水を“楽しみ”としたのであって、好みとしたり愛したりはしていません。
── 深くしみじみと味わうとでもいった情趣の様に思います。
また、孔子川上の感嘆も、(孟子なら流れて尽きないものと感じてぴったりですが)
孔子の老齢や孤独・不遇を考え合わせると、
“無常”流転への悲哀〔かな〕しい晩年の悟りのように感じます。
不思議と、西洋の大賢人レオナルド・ダ・ビンチの手記の文言:
「君が手にふるる水は過ぎし水の最期のものにして、来るべき水の最初のものである。
現在という時もまたかくのごとし。」と、
その達観・晩年の境地、相通じるものがあるように想います。
注6)
孟子は人の“性”を水に象〔かたど〕り(“人の性は水のごとし”)、
己〔おの〕が根本思想である“性善(説)”を決定づけるものとしています。
すなわち、告子〔こくし〕との人の性をめぐる論争がそれです。
告子は、人の本性は渦巻いて流れる水のようなもので、
流れる方向が決まっていないので、東へでも西へでも流れて往〔ゆ〕きます。
それと同じように、人の本性というものも、
始めから善悪(善不善)の区別があるわけではないのです。と主張しました。
それに対して孟子は、次のように反論しています。
■「水は信〔まこと〕に東西を分つことなきも、上下を分つことなからんや。
人の性の善なるは、猶〔なお〕水の下〔ひく〕きに就くがごとし。
人 善ならざることあるなく、水 下らざることあるなし。 」
◇「確かに水には、東に流れるか西に流れるかの方向を決めることはできません。
が、しかし、高い方に流れるか低い方に流れるかの方向が
決められないということがありましょうか、そんなことはないでしょう。
人の本性がもともと善であるというのは、
恰〔あたか〕も水が必ず低い方へと流れて往くのと同じようなものです。
ですから、人の本性には、誰でもみな悪(不善)であるものはなく、
水は低い方に流れて往かないものはないのです。」
そして、更に反論を加えます。
水は、水面を手で打てば跳ねて額〔ひたい〕より高く上がったり、
せき止められて山の頂〔いただ〕きまで逆流したりすることはあります。
が、どうしてそれが水の本性であるといえましょうか。
外力がそうさせただけなのです。
ですから、人が時に悪(不善)を成すのも、それは決して人の本性ではなく、
(利害損得や金品財物といった)外からの影響力に因〔よ〕るのです。
(『孟子』・告子章句上2)/(『孟子』・小林勝人訳注・岩波文庫 参照)
《 老子 と 「水」 》
水の象〔しょう/かたち〕は、黄老思想の要〔かなめ〕です。
「上善若水〔じょうぜんじゃくすい:上善は水の若し〕」 (『老子』・第8章)と、
水を無為自然、最高の徳(≒道)の象としているのです(“不争の徳”)。
『老子』・第78章にも
「天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し。
而〔しか〕も堅強を攻むる者、之に能〔よ〕く勝〔まさ〕るなし。」とあり(“柔弱の徳”)、
第66章にも「江海の能く百谷〔ひゃっこく〕の王たる所以〔ゆえん〕の者は、
其の善く之に下〔くだ〕るを以て、故に能く百谷の王たり。」とあります・・・
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