儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです

水【坎】 に想う  (その11)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 水=川の流れ ・・・ 鴨長明・『方丈記』 》

川の流れのように」 や 「時の流れに身をまかせ」という名曲の表題は、
私たち(日本人)の感性によく適〔かな〕いよく知られています。  注10)  

古代中国において、“水”は“川”と同意でした。

“水”は流れ移りゆくものであり、
したがって川の流れであり、時の流れとも表現できるのです。


東洋思想において、古代の聖人・哲人(ex.孔子老子孫子 ・・・・ )は、
“水”をその思想の象〔しょう/かたち〕といたしました

そしてそれは、“水”を(有形・固定したモノとしてではなく)
時間”(無形・移りゆくもの)で捉えるものです

すなわち、水の流れ = 川(の流れ) として捉えるものであったといえましょう。


【東洋思想の水】 
☆水を時間(無形・形而上的)で捉える = 水の流れ = 川(の流れ)


鴨長明方丈記〔ほうじょうき〕』は、
吉田兼好徒然草〔つれづれぐさ〕』と共に、
わが国鎌倉期を代表する二大随筆です。  注11)  

両者は、仏者の隠者文学の金字塔で、“仏教的無常観”で貫かれているとされます。

この二大作者・作品は、中国の源流思想(=水【坎】の思想)の影響を
色濃く反映しているということができましょう。


私見ながら、(東洋三大思想、宗教としての)“仏教”が加わると、
「易学(儒学)」・「黄老」の“変化”・“循環”の思想が、
“はかない/むなしい”といった消極的な意味で捉えた
“無常観”(=変化)の悟りになっていると考えられます

【陰陽】の【陰】と捉えることもできましょう。  注12)


水の流れ(=川/「ゆく河の流れ」)を、その文学作品の冒頭に
滔々〔とうとう〕と綴〔つづ〕ったものが、鴨長明方丈記〔ほうじょうき〕』です。

そこでは、“無常観”(=変化)が
ながれる水(河)の象〔しょう/かたち〕となって表わされています。

空間(有形)を捉えているところは絵画的であり、
時間(無形)を捉えているところは哲学的でもある文学作品の書き出しです。

そして、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、・・・ 」と、
まさに流れるような文体で書かれています。

激動の時代に変化・無常を身をもって体感した鴨長明ならではの名文といえましょう。

以下、方丈記〔ほうじょうき〕』の冒頭部分を引用・紹介しておきましょう。


注10)
◆「川の流れのように」: 美空ひばり さんのヒット曲としてよく知られ、
秋川雅史・椿・近藤真彦奥村チヨ さんなどで歌われている名曲です。
今なお、多くの人々に唄い親しまれています。
似た題名の曲として、「川の流れの如く(吉田拓郎)」・
「川の流れは(THE BOOM)」・「川の流れを抱いて眠りたい(時任三郎)」 ・・・ etc.

◆「時の流れに身をまかせ」: テレサテン(鄧 麗君) さんのヒット曲として
よく知られています。
似た題名の曲として、「時の流れのように(中山美穂)」・
「時の流れの中に(谷山浩子)」 ・・・ etc.


注11)
平安期の清少納言枕草子〔まくらのそうし〕』を加えて、
わが国 “三大随筆”といわれています。


注12)
徒然草は 思想的には、一般に 仏教的無常観であるといわれています。
しかし、私は、兼好が 「変化〔へんげ〕の理〔ことわり〕」(74段) と呼ぶものを、
東洋的 “変化〔へんか〕の思想”として捉えてみたいのです。
源流思想としての 易・『易経』の世界観・人間観です。
変化は同時に 「時」 の理でもあります。
序段の「心にうつりゆく」は、時間的遷移〔せんい〕でもあり、
その遷移は中論(弁証法)的に捉えられます。
無限変化 ─ 進化循環するという意味においての 「無常」です
従って兼好の人間観・運命観は、陽性にして肯定的・主体的です。
つまり、宿命と運命を峻別し、運命は人間の力で打開できると信じています。
このことは、中世にあっては、注目すべきことではないでしょうか。
ヘーゲル哲学の運命観も同様であり、
ここに近代精神の先駆を見ることも出来ると思います。 
(高根:「『徒然草』にみる源流思想」より)


◎原典資料

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし

たまきの都のうちに、棟〔むね〕を並べ、甍〔いらか〕を争へる、
高き、いやしき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
あるいは去年〔こぞ〕焼けて今年作れり。
あるいは大家〔おおいえ〕滅びて小家〔こいえ〕となる。
住む人もこれに同じ。
所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、
二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。
朝〔あした〕に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。
また知らず、仮の宿り、誰〔た〕がためにか心を悩まし、
何によりてか目を喜ばしむる。
その主〔あるじ〕とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
あるいは露落ちて花残れり。
残るといへども朝日に枯れぬ。
あるいは花しぼみて露なほ消えず。
消えずといへども夕べを待つことなし。」


《 大 意 》
流れゆく川の流れは(常に)絶えることはなくて、
しかも、(その流れの水は刻々と変化して)同じ水ではありません。

よどんだ所に浮かんでいる水の泡は、一方で消えたかと思へばまた生まれて、
(生まれたかと思えばまた消えて)
長い間同じ状態でとどまっている前例はありません。

世の中の、人と(その)住居も、また(この川の流れや水の泡と)同じようです。

玉を敷きつめたように美しい都の中に、棟を並べ屋根の高さを競い合っている、
身分の高い人や低い人、あらゆる人の住まいは、
時代を経てもなくならないもの(のよう)であるけれども、
それを本当(になくならない家である)かと調べてみると、
昔あった家(で今も残っているもの)はまれです。

あるものは、去年焼けて今年(新しく)作っています。
あるものは、大きな家であったものが没落して小さな家となっています。

(そこに)住んでいる人も(家の場合と)同様です。

場所も変わっていないし、人もたくさんいますけれども、昔見知っていた人は、
二、三十人のうちに、わずかに一人か二人です。

朝に死んでゆく人がいるかと思えば、
夕方生まれる人もいるという(この世の)ならいは、
まさに本当に、水の泡に似ています。

 ── わからないのです、この世に生まれて死ぬ人は、
どこからやって来て、どこへ去っていくのか。

また、(これも)わからないことなのですが、
仮の住まいにすぎないのに、だれのために心を悩ませ、
何によって目を楽しませるのか。

その家の主人と住居とが、あたかも競い合うように儚〔はかな〕く滅び去るありさまは、
例えば朝顔の花(とその上)に置かれた露と変わりません。

ある時には、露が落ちて花が残っています。

残るといっても朝日を浴〔あ〕びて枯れてしまいます。

(また)ある時には、花がしぼんで露がまだ消えないでいます。

(が、しかし)消えないといっても夕方まで残っていることはないのです。


《 レオナルド・ダ・ビンチ と 「水」 》

古来、“天才”と称される偉人は少なくはありません。
が、“万能の天才”(ウオーモ ウニベルサーレ:普遍的人間)と冠される偉人は稀〔まれ〕です。

その“万能の天才”の名声を代表しているのが、
ルネサンスの巨人、レオナルド・ダ・ビンチ です。

賢人・聖人の至れるものが、象〔かた〕どられた“水”であることから、
レオナルドにおいても“水”は強い執着と“楽〔らく〕”を与えているものです・・・




※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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